〈米良荘〉
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2025年07月19日(土)07:40更新
☆ 米良荘(読み)めらのしょう
改訂新版 世界大百科事典 「米良荘」の意味・わかりやすい解説
米良荘(めらのしょう)
宮崎県中部を東流する一ッ瀬川の上流一帯を指す地域名で,米良山地ともいう。行政的には西都市東米良地区と児湯(こゆ)郡西米良村に属する。山地は中生代の四万十(しまんと)層群に属する粘板岩と砂岩を主体にした九州山地を一ッ瀬川の本・支流が浸食したもので,高い所で標高1000m内外であるが谷の傾斜が急で,古くから北方の椎葉とともに平野部から隔絶した地域として隠田集落的性格をもち,独特の民俗を有した。古い時代の歴史は不詳であるが,15世紀初め肥後の菊池氏が後醍醐天皇の子孫を奉じてこの地に入山し,米良氏と改姓して支配したといわれる。伊東氏が日向の地頭として勢力を張るとその支配下に入ったが,近世には肥後の人吉藩領となり,米良氏はこの地の管理を委嘱された。1943年に国道219号線が一ッ瀬川の谷に沿って熊本県に抜けてからはダムや発電所が建設される一方で,過疎化が進行している。この地に広く行われる米良神楽は有名。
執筆者:下村 数馬
民俗
住民は林業,狩猟のほか行商を営み,焼畑を開いてヒエ,アワ,いも,陸稲などを輪作し自給生活を営んだ。それらに伴う歌謡や祭儀には古代をしのばせる民俗が残存し,ことに焼畑を開く場合に伐採しえない大木の枝を切除する木おろし作業とそれに伴う歌謡はよく知られている。木おろしでは,朝の作業歌を歌って大樹に登ると夕方作業を終えるまで地に降りず,木から木に移るにはさおを用いてそれを伝わって移動し,飲食や排泄も樹上で行う。小水は携えた竹筒を使用した。終わると木から降りたときの作業歌を歌い山の神に感謝を捧げる。これらは田植における田植歌の儀礼に対応するもののようである。また,竜房山の銀鏡(しろみ)神社は狩猟者の信仰が厚く,祭神は山の神と考えられ,祭礼ではこれに狩りの獲物を供え,終夜舞楽を奉納し最後に猪狩りのわざおぎを演じて終わる。狩りの作法のなかには古式を伝えると思われるものが多く,そのいくつかは〈狩の巻〉または〈西山小猟師一流〉と称する秘伝書に記されたものと共通するところが少なくない。行政上の役人の呼称に中世的名称のべんざし(弁済使)と呼ばれるものがあったのも古い生活の残存を示すといえよう。
執筆者:千葉 徳爾
日本大百科全書(ニッポニカ) 「米良荘」の意味・わかりやすい解説
米良荘
めらのしょう
宮崎県中西部、児湯(こゆ)郡西米良村、西都市(さいとし)東米良地区にあたり、九州山地内にある隠田(おんでん)百姓村。米良山ともいう。一ツ瀬(ひとつせ)川上流部に位置し、市房(いちふさ)山(1721メートル)、石堂(いしどう)山(1547メートル)などがそびえる。集落は山腹の緩斜面に散在し、本流、支流に沿う中心的な集落は村所(むらしょ)、小川(おがわ)、銀鏡(しろみ)、尾八重(おはえ)があげられる。山間に村を形成したのは中世ごろで、肥後(ひご)の豪族菊池(きくち)氏一族が逃れて入山し、米良姓を名のった。江戸時代は人吉藩(ひとよしはん)に属したが、米良氏は交替寄合(よりあい)家として譜代(ふだい)大名の待遇であった。米の石高(こくだか)はきわめて少なかった。山村の生活は焼畑、林業、狩猟などで、米良山は将軍家が狩に使う鷹(たか)の産地として鷹巣山(たかのすやま)にも指定されていた。領主館は小川にあったが、現在は村所が中心地になっていて、菊池記念館、歴史民俗資料館がある。
[横山淳一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「米良荘」の意味・わかりやすい解説
米良荘
めらのしょう
宮崎県西部,一ツ瀬川上流域一帯の地域名。江戸時代は肥後の人吉藩領であった。行政上は西米良村,木城町と西都市東米良地区に属する。九州山地中にあり,1943年に国道 219号線が通じるまではまったくの隔絶地域であった。落人伝説が伝えられ,独特の歌謡や風習が伝承されているが,バスが通じ,ダムや発電所が建設されて変容が著しく,昔の姿は消えつつある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
コトバンク(20250718金)
☆ 西米良村について

【菊池の薫陶】
米良・菊池の歴史は1501年、南朝方の武将として名高い肥後菊池氏第22代能運が幕府の追討による一族の根絶を憂い、その一子を米良山に落ち延びさせたことに始まります。
入山した菊池氏は米良姓を名乗り、幕末までの約400年にわたり村を統治しました。版籍奉還に際し、最後の領主である則忠公は領地のすべてを領民に分け与え、人々の生活を援助しました。
その遺徳は今でも米良の歴史とともに語り継がれています。
【精霊カリコボーズ】
カリコボーズとは、米良地方に伝わる精霊のことで、春の彼岸から夏にかけては川に下り「水の神」に、秋の彼岸から冬にかけては山に登り「山の神」になると言われています。ちょっとした、いたずらもしますが決して悪さはしません。村内各地に様々な逸話が残されており、村の語り部によって語り継がれています。
山の仕事をするとき、塩や米、焼酎を供えて、山の神様に祈る習慣があり、これを怠るとカリコボーズが家を揺すり驚かせることがあると言い伝えられています。
ちなみに、カリコボーズは心のきれいな人しか見ることはできないと言われています。
【お問合せ先】
西米良村ふるさと納税サポートセンター
電話:097-507-3020
FAX :097-536-8550
住所 〒881-1411 宮崎県児湯郡西米良村大字村所15
URL https://www.vill.nishimera.lg.jp/village/
電話番号 0983-36-1111
ふるさとチョイス(20250704金)
☆ Search Labs | AI による概要

西米良村は、宮崎県西部に位置する人口約1,000人の小さな村です。面積の約96%が山林で、九州山地の真ん中に位置しています。熊本県との県境にあり、美しい自然や温泉、地元食材を使った料理が楽しめます。
西米良村は、以下の点で特徴的です。
自然豊かな環境:
96%が森林で、一ツ瀬川が流れ、四季折々の風景が楽しめます。
温泉:
「西米良温泉ゆた~と」など、泉質の良い温泉があります。
食文化:
ジビエ料理や西米良サーモンなど、村ならではの食事が楽しめます。
歴史と文化:
菊池一族の歴史や、西米良神楽などの伝統文化が残っています。
ワーケーションや移住の促進:
自然の中でテレワークやワーケーションをしたり、移住を検討したりする人も増えています.
「カリコボーズ」:
村の精霊として親しまれており、村のシンボルとなっています。
西米良村は、都会のような便利さはありませんが、自然、食、温泉、人々の温かさなど、心豊かな生活を送れる場所として魅力があります。
鷹の羽
ワシタカ類に属する鳥類の羽を図案化したもの。鷹の威厳ある姿からか、武人に好まれた。この紋は浅野家や肥後の菊池一族の紋であったことでも有名。
家紋ドットネット
☆ Search Labs | AI による概要
丸に違い鷹の羽 – 家紋DB
「丸に違い鷹の羽」は、家紋の一種で、鷹の羽を2枚重ねて配置し、その周りを丸で囲んだデザインです。勇猛な鷹の羽を家紋にすることで、武運や強さを願う意味が込められています。戦国武将にも好まれ、特に浅野家が有名です。
「丸に違い鷹の羽」は、家紋の中でも特に人気のあるデザインの一つです。その特徴的な形状と、鷹の持つ力強いイメージから、武将をはじめとする多くの人々に用いられてきました。特に戦国時代には、多くの武将がこの家紋を好んで使用しました。
デザインの特徴:
違い鷹の羽:2枚の鷹の羽を、左右にずらして重ねたように配置します。
丸:違い鷹の羽を、丸で囲んだデザインです。
意味:
鷹:勇猛果敢、強さ、勝利を象徴します。
丸:調和、統一、完全性を表します。
使用例:
浅野家:浅野長政や赤穂藩主浅野長矩などが使用しました。
その他:戦国時代には多くの武将が使用し、江戸時代には大名や旗本で百家以上が用いたと家紋の和市場によると。
バリエーション:
「丸に違い鷹の羽」には、他にも様々なバリエーションが存在します。例えば、「丸に石持ち地抜き違い鷹の羽」や「丸に右重ね違い鷹の羽」などがあります。これらのバリエーションも、基本的には「丸に違い鷹の羽」のデザインをベースに、細部が異なるものとなっています。
☆ 米良
【読み】めら,よねなが,よねら,こめよし,こめら,まいら,べいら,よねよし,よねお,よねよい,よねりょう
【全国順位】 3,830位
【全国人数】 およそ3,100人
由来解説
①交代寄合米良家は現宮崎県である日向国児湯郡米良村が起源(ルーツ)である、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)隆家流。
②熊野別当族。
などにみられる。
最終更新:2025/04/23 08:15:53 最終更新者:名字由来net
米良さんの多い地域 TOP5
都道府県 人数
宮崎県 およそ1,200人
千葉県 およそ440人
東京都 およそ280人
大阪府 およそ260人
鹿児島県 およそ140人
市区町村 人数
宮崎県宮崎市 およそ310人
宮崎県東臼杵郡門川町 およそ310人
宮崎県西都市 およそ220人
千葉県勝浦市 およそ120人
千葉県茂原市 およそ100人
米良さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 比率
宮崎県 0.10931%
鹿児島県 0.00866%
熊本県 0.00744%
千葉県 0.00712%
大阪府 0.0031%
市区町村 比率
宮崎県東臼杵郡門川町 1.692%
熊本県球磨郡湯前町 0.811%
宮崎県西都市 0.74%
千葉県勝浦市 0.71%
千葉県長生郡長柄町 0.394%
名字由来net
https://myoji-yurai.net/about.htm
☆ 武家家伝_米良氏

●藤原氏菊池氏流 米良氏は肥後守護職を世襲した菊池氏の後裔で、二十二代能運の子重次に始まるという。菊池氏は南北朝時代に九州勤皇方の中心として活躍したことでよく知られ、室町時代にいたってもよく勢力を保持した。筑後守護も兼ねた持朝の代に全盛を誇ったが、重朝の時、叔父宇土為光が相良氏と結んで反乱を起こし、さらに、重臣らが菊池氏をしのぐようになり、次第に衰退の色を見せるようになった。
重朝のあとを継いだ能連(武運)の代、宇土為光が菊池氏重臣らと諜し合せてふたたび叛いた。そして、文亀元年(1501)、能連が城を留守にした隙をついた為光によって隈府城は陥落した。能連は肥後・筑後の兵をもって隈府城に迫り、玉祥寺原において宇土勢と激突した。菊池方は奮戦したものの、菊池武安をはじめ黒木為実・西牟田重家ら勇将、猛卒ら数百人が戦死する敗北を喫した。玉名に逃れた能連は、再起を期して有馬家を頼った。そのとき、後顧の憂いをなくすため、妻子を弟重房に依頼して米良の山中に落した。
その後、老臣城氏、隈部氏らの応援を受け、さらに相良長毎の協力をえた能連は、島原の援軍を率いて玉名に上陸した。これを聞いた為光は、兵を率いて高瀬に向かい能連と戦った。激戦の結果、能連方の勝利となり宇土城に逃れた為光を攻撃、ついに自刃においこんだ。かくして能連は隈部城に復帰したが、高瀬の戦いにおける戦傷が癒えず、二十五歳を一期として死去した。その後、菊池氏は一族の政隆が家督を継いだが、人気がなく廃されて阿蘇氏から惟長が迎えられた。
菊池氏を継いで肥後守護となった惟長は武経と改めたが、ほどなく廃され、一族の託磨氏から武包が迎えられた。この武包もほどなく廃され、豊後守護大友氏から義武が迎えられて肥後守護となった。まさに、菊池氏の家督はめまぐるしく廃立され、天文二十三年(1544)、義武も甥の大友義鎮によって殺害され肥後菊池氏は滅亡した。 米良氏の発展 宇土為光の乱によって、能連の幼子を守って肥後から米良山中に逃れた重房は、すでに米良に住していた叔父武照をたより、さらに西郷・赤星ら菊池一族とともに銀鏡の地に落ち着いた。菊池氏の幼君の入山に対して、鈴木・銀鏡・奥松ら米良の豪族らは山民を引き連れて出迎えた。米良に拠点をおいた幼主は成長ののち菊池姓を隠し、天姓米良と改め、米良石見守重次と称した。これが、米良氏の始まりである。
ところで、銀鏡の地には南北朝時代における九州宮方の中心であった征西宮懐良親王の一族が入山し、天氏一族が繁栄していたとされる。また、重次の入山以前に重為・国重らがすでに米良に入っていて、重次は三代目とする説もあるが、年代的にうなづけないものである。一説にいわれる重為・国重は重次と同一人物とする方が妥当であろう。
さて、幼い重次を守る重房は、米良山中の統一と外征の任にあたった。こうして、肥後菊池氏は衰退したものの、米良氏は四囲の山々を自然の楯として内治につとめ、米良山中は次第に士気があがるようになったのである。
やがて米良氏の当主として活動するようになった重次は、須木城の米良信濃守、籾木の米良門慶入道、山陰の米良宮内少輔、肥後口猪之鹿倉の米良半右衛門らの先住菊池米良一族を指揮下において、相良・伊東・島津氏らと対峙した。そして、永正十五年(1518)伊東氏と和を結んで、連合して島津氏に当たることを約した。さらに、伊東氏の老臣らとも親交を結び、米良家の領域を明確にし、その独立を認めさせたのである。一方で重次は、屯田兵の制をしいて山中の民をすべて武士とした。これによって、米良の武士たちは平素は農事にあたり、いざことあるときは槍・刀をとって立ち上がったのである。
重次を補佐して米良氏の執権をつとめた重房は、さらに米良氏を安泰たらしめるため、銀鏡城を出て那須領をおかし、田代を攻めて支配下においた。そして、次男の重幸を田代城におき、孫の重義を渡川城に留めて肥後進出を企てた。また重房の嫡男重則は北進して鞍岡の甲斐氏の婿となり、米良を改めて甲斐を称して御船に入った。
乱世を生きる
重次には六人の男子があり、嫡子重種が家督を継いで米良石見守を称した。次男の重治は米良村に居城し、三男重隆は平野に居城、四男重直は山陰城主、五男の重辰は諸県紙屋を領し、六男重固は穂北一円をしたがえて花園城主となった。このように、重次の子らは力を合わせて国境を固め、ますます米良一族の勢力は拡大していったのである。そして、米良氏は伊東氏と通じて各地に出陣し、指揮下の米良武士たちの勇名を高からしめた。天文二年(1533)、伊東氏に内訌が起こると、重次は伊東左兵衛佐の請いをいれて兵を送っている。
米良山中に一定の勢力を築いた重次は、天文二十年、五十五歳をもって死去し、家督は嫡子の重種が継承した。重種の代になると、世の中はまったく戦国時代であり、九州は豊後の大友氏、日向の伊東氏、肥前の龍造寺氏、そして薩摩の島津氏が互いに覇を競い合っていた。永禄二年(1559)、重種は卒去し、そのあとは弟の重治が継いだ。重治は米良城を本城として、北の大友氏、南の伊東・島津氏、西の相良氏らに備えた。
弘治元年(1555)、相良晴広が没し義陽が家督を継いだ。義陽は十二歳の少年であったため、老臣東氏、丸目氏らが補佐した。ところが、永禄二年に至って東氏と丸目氏が対立し、ついには合戦沙汰となった。東氏は義陽を擁したため、劣勢となった丸目氏は那須氏に応援を求めた。那須氏は米良氏に支援を求め、重治はこれを承諾した。
那須氏と連盟を誓った重治は六百騎を率いて出陣したが、縁談のことで那須氏に面白くない感情を抱いていた。結果、重治は相良義陽に応じる旨を連絡し、丸目・那須の連合軍に当たった。戦いは相良・米良軍の優勢に動き、ついに、那須氏は討死、相良氏の内訌は終息した。以後、米良氏は相良氏と親交を結び、一族の米良半右衛門は相良家に客分として仕えた。
また、米良氏は伊東氏と結んで島津氏に対し、三股院ならびに飫肥をめぐる戦いが展開された。そして、三股方面は米良氏があたり、飫肥方面は伊東氏があたった。永禄十年、島津氏が米良筑後守・信濃守兄弟が拠る小林三山城に攻め寄せた。島津氏の大軍に対して、筑後守・信濃守兄弟の奮戦はすさまじく、ついに島津軍は兵を引き揚げた。
■米良・球磨概略図: 風色倶楽部(管理人satounoさま)のうち、球磨の部屋、椎葉・米良の支配から転載させていただきました。
ここに至って重鑑は、肥後を回復することで、米良山中を弟たちに与えようと決意した。そして、天正二年、重鑑は相良氏を頼って肥後に出陣していった。その途中、重鑑を亡きものにしようとする叛臣の遠矢により、むなしく落命してしまった。以後、米良家では、重鑑のたたりと呼ばれる不思議な出来事が続いたという。重鑑の死によって弟の重良が当主となり、石見守を称した。
米良氏が親交を結んだ伊東氏は日向一国を支配して、島津氏と永年抗争を続けてきたが、次第に島津氏に押されぎみとなっていった。天正五年、島津氏の日向侵略を受けた伊東義祐は、ついに十二月、佐土原城を出て大友氏を頼った。そして、義祐一行は米良を通って豊後に逃れようとした。一方、伊東家没落の報に接した重良は、山中に下知して伊東義祐の通過を保護するように命じた。また、追い討ちをかける島津軍に対して、家老浜坂民部の弟的場兵部があたり、必死の勇をもって島津勢の追撃を退けた。
こうして、米良氏の保護をえた伊東義祐は米良を通って、無事、豊後の大友氏のもとに逃れることができたのである。伊東氏を保護した大友氏は、島津氏との決戦を企図し、天正六年、日向に兵を進めたが高城・耳川の合戦に敗れ、大友氏も衰退の色を見せるようになる。
かくして、島津氏は九州統一の戦いを押し進めていった。そのころ、中央では織田信長が天下統一に邁進していたが、天正十年六月、本能寺の変で横死してしまった。そのあとは羽柴(豊臣)秀吉が継承、十三年には関白に任ぜられた。そして、大友宗麟からの支援依頼を受けた秀吉は九州征伐の軍を起こし、十五年、羽柴秀長を総大将とする大軍を九州に送ったのである。このとき、米良家では重良の弟重秀が千騎を率いて秀長軍に加わって活躍した。 近世へ 島津氏が降伏したのち、重秀は兄重良の嫡男重隆をともない精兵百騎を率いて博多に参って秀吉に謁見した。秀吉は博多において仕置を行い、米良家は米良一円を安堵された。米良家では天正の初めより重良が健康を害し、重良に代わって弟の重秀が家中の政治を取り仕切った。重秀は難しい時代にあって米良氏の舵取りを誤ることはなく、のちに米良宗家も重秀の功に対して篤く報いている。
ところで、肥後国は九州の役後、佐々成政が与えられたが、国人一揆の責任をとって改易となり、その後は加藤清正と小西行長に二分された。文禄元年(1592)の朝鮮出兵に際しては、重良の嫡男重隆が加藤清正に属して出陣、釜山に上陸した。米良軍は清正幕下にあって活躍、多くの戦功をたて、文禄三年まで朝鮮に滞陣した。
米良に帰郷した重隆が直面したのは、延岡城主高橋元種の米良領への侵略であった。慶長元年(1596)重隆が家督となり、高橋氏の侵略を阻止するため、叔父の重秀とともに上洛して奉行に訴え出た。このとき、石田三成のとりなしで秀吉に謁し、米良山の件について裁断を願い出た。重隆は家の系図を秀吉に差しだし、それを見た秀吉が米良家が菊池氏の直系で由緒正しい名門であることを認め、丁重に遇し手づから槍を授けた。そして、米良の一件は大坂城において双方対決ということになったが、高橋方の使者が登城しなかったため、米良の勝ちに決し一件は落着した。
翌慶長二年、ふたたび朝鮮出兵となり、米良重隆は二百騎を率いて相良氏とともに黒田長政の部隊に属して渡海した。このときも各地で戦功をあげたが、翌年、秀吉の死去により帰国、年末に米良に帰った。
慶長四年、島津家の家老伊集院氏が謀叛を起こし、庄内の乱が起こった。島津氏は米良氏にも支援をたのみ、重隆はみずから将となって弟の重朝、叔父の重秀らを副将とする総勢一千騎を率いて加勢に出陣した。米良氏の活躍は目覚ましく、乱が終息したのち島津氏は馬食料として千石を送り、さらに、重朝は禄千石をもって島津氏に召し抱えられた。その子孫は、島津氏に仕えて重臣に列した。
慶長五年の関ヶ原の合戦には、徳川家康に味方して所領を保全した。その後、元和元年(1615)に上洛した重隆は家康に謁して、米良家が菊池氏の直系たることを認められ、米良を旧来のように安堵された。重隆は元和九年に隠居して家督を嫡男の重直に譲った。
かくして、初代の重次が幼少の身で、危難を逃れて米良に入山してより一世紀、米良氏は家をまっとうして近世に生き残ったのである。その後、子孫は表交代寄合の一家となり、代々、大名並の扱いを受け幕末に至った。・2004年12月7日
【参考資料:菊池一族/菊池氏を中心とせる米良史/菊池氏の歴史要略 ほか】
米良荘ページ開設 2025年06月15日(日)
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